真っ白な青い森(尾形真理子)|読んでつなぐ、私の東北。|びゅうたび
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真っ白な青い森 尾形真理子

 白い大きな犬に、白い雪が積もっている。
朝から降り続いた雪も、午後になって風花となり、空は明るさを取り戻していた。
 雪帽子をかぶり、静かにたたずんでいた犬は、「あおもり犬」というタイトルで、奈良美智さんの現代アート作品である。
 青森県立美術館を訪れたのは、30代の半ばだった。人生で初めて経験した悲しい旅であり、わたしは8メートルを超える白い犬を前に、どれだけこらえても、にじんでくる涙を止めることができなかった。
 なにが悲しかったのか。まったくもって情けない話だが、ただ単に彼との会話がなかったからである。その時期、お互いの心情を話す余裕もなく、原因不明のわだかまりが続いていた。なぜそんな状態で旅に出たのか。これもまた情けないことに、今となっては覚えていないが、それだけ気まずさが常態化していたのだろう。旅程をなにひとつ決められぬまま(なにせ会話がないから)東北新幹線に乗り込み、盛岡を過ぎたあたりから雪景色に変わった車窓を、たまらない気持ちでじっと見つめていた。
 県立美術館をすっぽりと包んだ雪は、防音クッションのような役割をするのだろうか。この世界の音が雪に吸い込まれていくごとく不思議な静けさだった。うつむいて目を伏せた巨大な白い犬もまた、静かだった。ただ静かにそこにいる。
 わたしたちは一体なにをしてるのだろう。
愛おしさと、やるせなさと、淋しさと、バカバカしさと、情けなさと、いろいろな方向の感情がごちゃまぜになって溢れる。あおもり犬を観ながら、わたしは静かに泣いた。
 しかしわたしよりよっぽど泣きたかったのは、宿の仲居さんだったかもしれない。浅虫温泉に2泊お世話になったのだが、客がふたりして黙りこくっている。重い空気の中、一皿一皿、お料理を運んでいただくのが本当に心苦しかった。さすがに間が持たないと思ったのか、仲居さんが写真集を渡してくれた。
 ページを開くと、極彩色で迫力のあるねぶたの写真が続いていた。この祭りは夜の闇が暗いほど映えるはずだ。東京のそれも毎年ニュースになるが、やはり本場とはそのあたりは違うのではないか。
「ねぷた、ご覧になったことありますか」
ねぷた? ねぶた? 聞けば青森市は「ねぶた」、弘前市は「ねぷた」と一般的に言われるが、地域によって異なるらしい。ちなみに彼女はつがるが出身だと言っていた。「まだないです」と答えたわたしたちに、「本当に賑やかで、こんな冬と違って……」と、やまない雪が申し訳ないとでも言うように、「今度は夏に、またいらしてください。ねぷた楽しいですから」と仲居さんは続けた。
 翌朝、東京での仕事の時間に合わせて、まだ仄暗い早朝に宿を出た。青い森鉄道を待つ間に、空は少しずつ明るくなり、雪は、吹雪になっていった。それでも車窓に吹きつける結晶が美しい。樹木に降る雪が美しい。真っ白になった森が美しい。
 あんなに立派に作られたねぶたは、祭りが終わるとあっという間に解体され、翌年はあたらしいものを作るのだという。同じように見えても、毎年たくましく生まれ変わるのだ。どんなに雪が積もっても、春は雪を解かし、夏になれば目前の森は青に戻る。あおもり犬は、じっと静かにたたずんでいるに違いない。
 夏になったら、また行きたいね。
 わずか4時間で到着した東京は、嘘みたいな青空だった。

奈良美智 《あおもり犬》
2005年 Photo © Daici Ano 
Artwork © Yoshitomo Nara

監修 幻冬舎

尾形真理子
コピーライター ・クリエイティブディレクター。1978年東京都生まれ。2001年(株)博報堂に入社し、2018年(株)Tangを設立。ルミネをはじめ、資生堂、Tiffany&Co.、キリンビール、Netflix、FUJITSUなど多くの企業広告を手がける。朝日広告賞グランプリ、ACC賞ゴールド、TCC賞など受賞多数。『試着室で思い出したら、本気の恋だと思う。』(幻冬舎)で小説家デビュー。