「ぬくぬくダラダラしながら、ひたすら本の世界にふけりたい」
文系人間なら誰しもがとりつかれている根深~い欲望ですが、なにも現代人に限ったことではありません。例えば、尾崎紅葉の『金色夜叉』、徳冨蘆花の『不如帰(ほととぎす)』、そして夏目漱石の『坊っちゃん』……文学史上に燦然と輝く文豪たちだっておんなじ気持ちだったからこそ、数々の「温泉文学」が世に生み出されたわけです。そこで今回は、数々の大作家を魅了したユートピア・修善寺温泉で、読書三昧の時間を堪能する旅をご紹介いたします。
東京駅から颯爽と乗り込んだのは、特急「踊り子」号。もちろん車中のお供は川端康成『伊豆の踊子』としゃれこみましょう。これ、ついつい長編の『雪国』とごちゃまぜに記憶されがちですが(名作あるある)、実は40ページほどのコンパクトな作品。行きがけの読書にぴったりなんです。こちらの岩波文庫版には、『伊豆の踊子』のヒロインの清らかでピュアなイメージとは対照的に、底辺を生きる女たちの猥雑な姿をなまめかしく切り取った『温泉宿』という隠れた名作も所収されています。いわば同様のシチュエーションが織りなすコントラスト。いやはや、温泉文学、のっけから奥が深い。
修善寺駅からバスに揺られて8分。修善寺温泉駅から桂川に出れば、そこに広がるのはまさしく湯の里の風情。晴れた日の川の音が、こんなにも耳に心地いいなんて!
修善寺ゆかりの文学者のひとり・飄々とした作風で知られる井伏鱒二は、桂川でよく釣りをしていたそう。「今でもべつにお前のことをおこってはいないんだ」――孤独な頑固者同士の、どこかユーモラスな攻防の顛末を描いた『山椒魚』。鮮やかな〆の一文は、このせせらぎに心洗われた境地から紡ぎ出されたのかも? そんな思いを巡らせるのもまた一興です。
修善寺周辺は、伊豆最古の木造建築とされる指月殿、竹林の小径、温泉街など、ミシュラン・グリーンガイドで2つ星を獲得した絶好の散策コース。湯上がり散歩にもってこいの情景が続きます。
修善寺温泉のシンボルにして、伊豆最古の温泉ともいわれる独鈷(とっこ)の湯。現在は入浴不可ですが、すぐそばにある河原湯から眺める風景もオツなもの。加えて近代文学の名作はたいてい青空文庫のサイトで読めるので、文庫本はもちろん、スマホやタブレットひとつあれば、足湯with読書も思いのまま。うーん、贅沢!
ちなみに近年の修善寺人気の理由のひとつが「恋の橋めぐり」。桂川にかかる5つの橋それぞれに、恋愛にまつわる御利益があるとされています。そんなブームにかこつけておすすめしたいのが、大人のラブストーリーの名手・柴門ふみによる名作ナビゲート本『恋する文豪』。川端康成の『雪国』、尾崎紅葉の『金色夜叉』などの温泉文学から、石原慎太郎や村上春樹にいたるまで、男女の視点をテーマに絶妙なツッコミを入れながら小気味よくさばいてくれます。くだけた口調ながら、近代文学ガイドとしても秀逸ですよ。
さて、テンションもいい感じにあったまってきたところで、いざ本丸へ。今回の読書三昧で逗留するのは「湯回廊 菊屋」。かの大文豪・夏目漱石ゆかりの宿として有名です。
大の風呂好き・温泉好きだった漱石先生。例えば『坊っちゃん』は道後温泉、『草枕』は小天(おあま)温泉が舞台であることが知られているほか、作中に登場する入浴シーンがどれも生き生きと描かれているのも特徴です。
病気療養のために修善寺を訪れていた漱石は、当時の菊屋旅館で昏倒。一時は意識不明の重体に陥りますが、妻の手厚い看病のかいもあって快方へ。この「修善寺の大患」の経験が漱石の心境に転機をもたらし、以後の作品に大きな影響を与えたといわれています。
ちなみに当時の漱石が滞在した部屋の様子は、近隣にある「虹の郷」内の「夏目漱石記念館」に再現されているので、興味のある方はそちらもどうぞ。
ところで、夏目漱石といえば始終イライラの気難し屋、漱石夫人といえばソクラテスの妻と並び称される「悪妻」のイメージがまかり通っていますが……「彼を恐ろしい人に変えたのは神経衰弱という病気であって、頭が妙な膜で覆われていない時の生の漱石は、稀にみる心の温かい物解りのよい優しい人だった、とも母はよく言っていた」。半藤末利子『夏目家の福猫』には、家族しか知りえない、ちょっと意外な夏目家の姿が描かれているので、ぜひご一読を。
さあ、ここから先は、宿にこもって至福のリラックスタイムの始まりです。こちらでは館内着として作務衣を採用。浴衣と違い、いくら歩き回ってもはだけなくて、ものすごく楽ちん。あらかじめタオルの入ったカゴバッグも用意されているので、いちいち部屋に戻らなくても、このままお風呂も食事もアロマサロンにも、どこへでも行けちゃいます。超ストレスフリー!
そして、どーーーーーーーん! やっぱりこれに尽きますよね。
広々としたつくりの大浴場もすばらしいのですが、日の傾きに合わせて刻々と表情を変えていく露天風呂は格別。ちなみに小さめの露天風呂2つは24時間誰でも無料で40分間貸し切り利用できちゃいます。館内には椅子やベンチがいたるところに用意されているので、あいにく先客が利用中でも、のんびり読書しながら待っていればいいだけ。なんだこの快適すぎるシステムは……!
館内には極上アロマセラピーサロンも併設。本読みには頑固な肩こりがつきものですが、きっちり揉みほぐしてもらえます。ふぁ~、極楽。
こんなふうに自分の体をとことん見つめる機会には、内澤旬子『身体のいいなり』をお供にするのもおすすめです。乳がんをきっかけに、それまで考えてもみなかった「女性性」と向き合うことになった作者の不思議な明るさに、なぜか心が少しずつ軽くなっていきます。
いかにも味わい深い洋館風のラウンジスペースには、柱時計や水出しコーヒーのサーバーの傍らに、かなり年季の入った本も並んでいます。これは読み応えあるなあ。
くだんのラウンジスペースでは、いつでも好きなときに挽きたてコーヒーやハーブティーなどが味わえるほか、定時になると日替わり「夜鳴きそば」がふるまわれるサービスも。もちろん、お部屋のこたつはぬくいし布団はふかふかだし、くうぅ、ここは桃源郷ですか??
最高の読書環境に囲まれて、夜が更けていきます……。
チェックアウトぎりぎりまで温泉を堪能したあとは、日枝神社や修善寺へお参り。岡本綺堂の戯曲『修善寺物語』も、ここを舞台に描かれた傑作です。主人公は、将軍・源頼家の命で面を打つことになった面作師・夜叉王。ところが何度打っても死相が出てしまい、満足なものができあがらない。しかし将軍はその面を気に入り、夜叉王の反対も聞かずに、彼の娘もろとも召し上げてしまう――職人かたぎの父とその娘、時の権力者が登場する点は芥川龍之介の『地獄変』にも通じますが、こちらはもう少しハートウォーミング。作中のモデルとなった古面は隣接する瑞宝蔵に保管されているので、ご覧あれ。
修善寺を抜けるようにして山道を登ると、文人たちの句碑が立ち並ぶ梅林へ。あいにく梅の季節には早かったのですが、匂やかに咲き乱れる水仙が出迎えてくれました。ただしこの散策コース、かなりガチなので、本当に湯治に来ているような方々には、バスで上まで行ってから下りてくるルートを推奨いたします。
ちなみに俳句の味わい方が知りたい方には、高浜虚子の俳論三部作のひとつ『俳句はかく解しかく味わう』もおすすめ。読み方のポイントを、初心者にもわかりやすく記した名著ですよ。
さて、修善寺きっての名宿といえば、新井旅館の存在も忘れてはいけません。前述の岡本綺堂、尾崎紅葉、高浜虚子に、泉鏡花、芥川龍之介、幸田露伴……名だたる文学者たちも愛したこの美しい建物は登録有形文化財に指定されており、文人墨客の滞在時のエピソードを交えたガイドツアーも催行されているので、時間があればぜひ体験を。
こんな夢のような空間で、じっくりゆっくり本が読めるとしたら……やっぱり大作、それも「二十世紀最高の小説」はいかがでしょう? とりわけ、この柳瀬尚紀訳『ユリシーズ』は、まどろっこしい注釈を一切排したスタイル。難解な内容ではありますが、俗世のせわしなさから切り離された場所なら、するりと入ってくる言葉もあるってものです。
旅は日常の文脈から自由になれる貴重な時間。
今回ご紹介した本以外にも、あなただけの「ぴったりの一冊」を、ぜひ探してみてください。
今回の旅の行程
【1日目】東京駅→熱海駅→修善寺駅→修善寺温泉駅→指月殿→独鈷の湯→桂橋→竹林の小径→湯回廊 菊屋
【2日目】湯回廊 菊屋→日枝神社→修善寺→梅林→新井旅館→修善寺温泉駅→修善寺駅→熱海駅→東京駅